下津の空襲体験語る 平和のつどいで良田さん
終戦の日の15日、日中友好協会県連合会海南支部(幡川文彦支部長)主催の「平和のつどい」が和歌山県海南市日方の市民交流施設・海南ノビノスで開かれ、同市下津町方の良田秀俊さん(91)が同町を襲った米軍の爆撃の体験を語り、「なんと不幸な死に方かと恨みを残して死んでいった人がたくさんいたと思う」と戦没者の無念に思いをはせた。
「平和のつどい」は、1971年に海南市民らの募金で建設された石碑「日中両国平和の塔」の前で、戦争の誤りを繰り返してはならないとの反省と平和への決意を確認する場として毎年開かれ、ことしで51回目。石碑は2度の移設を経て昨年からノビノスの駐車場の一角に建ち、同所では2回目の開催となった。
石碑前で式典が行われ、参列した約40人は戦没者に黙とうをささげ、幡川支部長(84)は「この集会を、戦争と平和に関することをもう一度思い起こす契機にしたい」とあいさつ。参列者を代表して同支部の雑賀光夫さん(77)が石碑に献水した後、ノビノス内の一室に移り、良田さんの話を聞いた。
太平洋戦争末期の1945年7月2日夜と6日夜、下津町は米軍の爆撃機B29の空襲を受け、53人が亡くなったと記録されており、良田さんは15歳でこの空襲を体験した。
当時は旧制海南中学校3年生で、勤労動員で和歌山市内の工場に通って働く日々。2日夜の爆撃は、自宅の旧大崎村(現在の下津町の一部)で寝ている最中に起こった。
爆音とともに家がガタガタと揺れ、近くの防空壕に家族と逃げ込んだ。爆撃は2時間ほど続いたと感じたが、後に米軍の資料を調べると、実際は約1時間。「とても長く感じた」。
良田さんは、隣組だった近所の住民がどうなったかを一軒ずつ説明。特にショックだったのは、親類宅が爆弾の直撃を受け、4歳の男の子を含む一家4人が亡くなったことだった。防空壕ではなく山に逃げて犠牲になった人たちもいた。
軍国教育を受けた良田さんは、最後まで竹やりを持って戦うのだと思っていたが、農家の叔父が「われわれ最下層の国民は、戦争に勝とうと負けようと、生活は大して変わらん。心配いらん、生きていける」と話してくれたことで考えが変わったという。
「農民の土性骨というか、叔父さんの言う通りだった。負けても、物資がなくて困りはしたが、米軍にいじめられることはなかった」
憲兵などの目があり、大っぴらに口にされることこそなかったが、「日本は負ける」「くさった戦争しくさって」など人々の本音の言葉を耳にした体験も紹介した良田さん。「本心では戦争を恨んでいる人が多かった。300万人が死んだ戦争の責任を誰が取るのかと感じる」と厳しい口調で語った。