戦後80年、語り継ぐ記憶⑤ 脳木恭子さん

1945年7月9日の和歌山大空襲の日のことは、今でもはっきり覚えている。

当時私は久保丁に住んでいた。父は戦地に行き不在。空襲警報を聞き、母は1歳の弟をおぶり、私の手を引き、12歳の兄、10歳の姉と5人で逃げた。避難場所に指定されていた旧県庁(現汀公園)を目指したが、炎に包まれていたため、市堀川に架かる寄合橋の下に。空から落ちてくる数え切れないほどの焼夷弾が夜空に光り、不謹慎ではあるが、まるで花火のように見えた。

川には燃えながら船が流れていた。翌日家に戻ろうと、通りに出ると、まちは焼け野原。地面はものすごく熱く、沿道の両脇には死体が並び、うめき声を上げ倒れている人もいた。防火用水の貯槽に体を半分突っ込み死んでいる人の姿も見た。怖かった。覚えているのはそれだけで後の記憶はない。その光景だけが強烈に脳裏に焼き付き、今も離れない。