和歌山大空襲から70年 語り継ぐ証言④
激しく燃え上がる炎に包まれ、煌々と浮かび上がる和歌山城――。和歌山市役所1階ロビーに、美しくも悲しいその絵はある。小学校4年生で和歌山大空襲を体験した同市中之島の日本画家、清水達三さん(79)の作「孤月落城」。和歌山城天守閣が炎上する様子を目の当たりにした清水さんは、それを描かずにはいられなかったという。幼いあの日の光景は、70年がたったいまも鮮明な記憶としてまぶたに焼き付いている。
当時、清水さんの父親は大阪の病院で療養中。母親も看病に付き添っていたため、清水さんは同市楠見中の母親の里に身を寄せていた。
昭和20年(1945)7月9日の夜、敵機の大きな爆音で目が覚めた。慌てて家の外に出ると、「B29」の文字がはっきりと見て取れるほど米軍機が低空を飛行していた。清水さんは、焼夷弾が落ちてきた場合に備え、瀬戸物を入れたリュックを背負い、叔父と共に一目散に飛び出した。
暗闇の中、雨のように斜めに降る焼夷弾の間を縫うようにひたすら逃げた。地区にあった建物といえばほんの10軒ほどで、一面に田んぼが広がっていた。防空壕はあったが「これほど危険な場所はない」と入らず逃げた。一軒の大きな家から、清水さんが住んでいた家の納屋に炎が燃え移り、保管していた資材は焼失してしまった。
シュルシュルと音を立てて降る焼夷弾に慌てて身を伏せると、それは頭上をかすめ、すぐ後ろの田んぼに落ちて火が燃え広がった。逃げ惑う中、出会った同級生から「ここにいたら危ない。紀の川へ行かなだめや」と声を掛けられ、水辺を目指した。一緒に逃げていた叔父は近くのお宮の大きなクスノキの下に避難したようだった。
紀の川の川原にたどり着き、そこから和歌山城が激しい勢いで燃えているのを目の当たりにした。目に映る視野の全てが真っ赤に染まり、見たこともないような大きな炎を上げている。無惨にも焼け堕ちていく天守閣。感情さえも奪われ、「不謹慎かもしれませんが、子ども心にきれいとさえ思えるほどでした。あの赤い炎は、恐らくずっと忘れないでしょう」と振り返る。
翌日、市内一帯は焦土と化し、電車は黒く焼け焦げ、まちなかには半身埋まっていたり、足が出ていたり、あちらこちらに遺体が横たわり、ひどい臭いが立ち込めていた。
「思い出したくもない光景。怖い、悲しいといった感情は越えていました。戦争とは、それほどひどいことなんです」
同時に、これだけ焼き尽くされれば、もう攻められることはないだろうという安堵感もあったという。
以来、あの日見た和歌山城をいつか描きたいと強く思い続けてきた。60歳を前に再建後の和歌山城を写生し、平和への願いとともに「孤月落城」(145㌢×75㌢)を描き上げた。清水さんが戦争を題材に描いた絵は、後にも先にもこの1枚のみ。
戦争は芸術の世界にも暗い影を落とした。従軍画家として命の危険を顧みず戦地に向かい、戦争画を描いた先輩画家もいた。生きて帰ってきたその人に戦地での状況を聞き、胸が詰まった。
近年は永遠の生命「水」を大きなテーマに描く日々。「次の世代に残したいのは、平和。それしかない。今は平和をいかにも当たり前に思い過ぎている。平和の中に文化は育つ。戦争に巻き込まれる世界には絶対になってほしくない」
そして、水あふれる郷土和歌山の風景を大切にしたいと思う。「和歌山は自然に恵まれ、平和そのもの。まだまだ描きたい山や川がたくさんあります」
争いのない平穏な日本であり続けるよう願いながら、きょうも絵筆を握る。
(和歌山大空襲の証言の連載は千田麻代、前田望都が担当しました)