6000㍍の火柱、空襲の恐怖 戦争体験語る
戦後70年の節目に合わせ、連合和歌山(小林茂会長)は1日、和歌山市手平の和歌山ビッグ愛で「次世代への継承」をテーマに平和学習会を開き、戦争を経験した語り部2人による講演などを通して、平和への思いを深めた。
学習会には連合の組合員と家族ら約60人が参加。和歌山市出身の平井章夫さんが和歌山大空襲について、神崎貞代さんが北朝鮮からの引き揚げについて、それぞれ講演した。
平井さん(83)は昭和20年(1945)7月9日深夜から10日未明にかけて、和歌山市に焼夷(しょうい)弾の雨を降らせた和歌山大空襲を語った。
当時13歳、平井さんは八番丁に住んでいた。深夜0時過ぎ、米軍B29の連隊が轟音(ごうおん)を響かせて襲来。紀の川北部の楠見、島橋から和歌山城周辺へと次々に焼夷弾が落とされ、あっという間に市内全体が火の海になった光景を振り返った。
平井さんは避難所になっていた旧県庁跡(現在の汀公園付近)に逃げたが、そこで見たものは高さ6000㍍以上にも達する火柱。空襲での死者1400人超のうち、旧県庁跡での死者は約750人。「火の粉が荒れ狂い、大地に伏せてただ耐えるだけの辛抱しかなかった。服がじりじりと焼け、肌も焼けてどうしようもなかった」
空襲後、平井さんは重症患者を搬送した新和歌浦の救護所に収容された。「救護所にはうめき声が響いていたが、日に日にその声が1人、2人となくなっていった」と救護所での恐怖も話した。
会場には、戦前と和歌山大空襲後の写真約20枚が並べられ、戦争の悲惨さを物語っていた。