みその商店街を見つめ続け 安藤さん語る
JR和歌山駅前の「みその商店街」は、第二次世界大戦後の闇市を発祥とし、その歴史は古く、戦後から今日まで和歌山市民の暮らしを支えている。終戦当時、13歳だった安藤夢尚さん(84)は、戦後の混乱期の中で商店の設立に奔走。青年期以降は同商店街の発展や大手スーパーダイエーの誘致などに尽力した。かつての活気が薄れつつある商店街で、現在も「美園の生き字引」として大きな存在感を示している。
安藤さんは同商店街内で、昭和44年から「のんびりやろうや」との願いを込めて名付けた「喫茶パラダイス」を経営。壁面には東京で仕入れた一枚板の装飾ガラスをはめ込み、酒のボトルを1本ずつ収納できる特別注文した棚などもしつらえた。豪華な内装の同店は、開店から6、7年にわたり2階席まで常に満席だった。
同店の他、約100軒の商店設立を手掛け、同商店街の最盛期を知る安藤さんだが、和歌山大空襲や戦後の悲惨な駅前の情景を今も忘れることができないという。
昭和20年の和歌山大空襲の際は日前宮の森へ逃げ、和歌山城が焼け落ちる様子を見ていた。「城がほこりのように一瞬で飛んだ」「爆弾を4発装着したB29が15~20機低空飛行している様子は、映画よりも恐ろしかった」と当時を振り返る。
手や足を失って帰還した軍人が、当時の悪質なアルコールでさらに体を痛め、連日駅前で数人は亡くなっていた様子が目に焼き付いており「気の毒で仕方なかった。怖いことばかりで楽しい日など一日もなかった」と話す。
父が闇市で商売をしていたこともあり「何とかして商売をしよう」と願い、一心に商店街の発展に尽力。当時を「命懸けでけんかばかりしていた」と、混乱期で事業を手掛けた苦労を厳しい表情で振り返る。
40代の頃は「流通革命の父」といわれた大手スーパーダイエーの創始者・中内功氏に見込まれ、和歌山市や岩出市でのダイエー出店に際し、建設を目指す土地の地主との駆け引きを交えた交渉に粘り強く取り組み、成果を出した。
信頼関係で結ばれていた中内さんに「夢みたいなことを言うなぁとよく言われた」という安藤さんの「夢尚」という名前は、父が命名した。「お坊さんですか?と聞かれることもあるぐらい難しい名前」と笑う。
時代の大きなうねりを見つめてきた安藤さんは「苦労をすると賢くなる」と静かに語り、同商店街の今後について「関係者が私利私欲を捨て、協力し合うことが必要」と願っている。