家康紀行⑬町名に残る「小豆餅」
前号では、家康の人生観を変えたとされる三方ヶ原の合戦の詳細と、古戦場の石碑について取り上げた。武田軍の追手が迫る中、命からがら浜松城へと逃げた家康の足取りを追っていきたい。今週は合戦にまつわる地名を紹介したい。
古戦場の石碑から南東へ約5㌔。浜松城とのほぼ中間地点に、浜松市中区小豆餅(あずきもち)という町名がある。小豆餅は三方原台地の中央部に位置する。
三方原台地は近くを流れる天竜川の扇状地が隆起してできた東西10㌔、南北15㌔の台地で標高は25㍍から100㍍ほどで坂が多い地域。
かつて付近にあった三つの村が共同で燃料や肥料になる草の採集に利用していた入会地(いりあいち)であったことから、「三方の村のための原」という意から「三方原」という地名になったとされる。
明治に入りお茶の栽培が盛んとなり、軽便鉄道が開通(昭和39年に廃線)、航空自衛隊浜松基地(浜松飛行場)がつくられ、現在は基地の周囲に住宅地が広がり、静岡大学浜松キャンパスが建つ。では、ここになぜ小豆餅という町名が付いたのか。
時は「三方ヶ原の合戦」。合戦に敗れ浜松城へと敗走する家康の、とある行動がその名の由来とされる。家康がここに差し掛かった際、空腹を覚えたという。たまらず近くにあった餅屋で小豆餅を注文し空腹を満たしていた際、武田軍の追手が目前に現れた。
慌てた家康は代金を払わずすぐさま馬に乗り、浜松城の方へと逃げ去ったという。
小豆餅屋があったことが地名の由来といわれるが、町名になるほど語り継がれるインパクトのある逸話が続く。それはこの餅屋の店主であった老婆の驚くべき行動である。次週に続く。
(次田尚弘/浜松市)