備前焼にほれ込んで 中村さんが窯を弟子へ
後半生の35年にわたり備前焼に取り組み続けてきた和歌山市板屋町の陶芸家、中村実さん(87)が一線を退く。大阪府岬町に構えてきた創作の場「大川窯」は閉じることを考えていたが、残すことを望む弟子たちの手で継承されることになった。「これまでやってきたことは間違っていなかったと思える良い人生を送れた」とほほ笑む中村さんの歩みを聞いた。
作陶を始めたきっかけは、経営していたジーンズショップを52歳で息子に譲ることを決め、人生の後半で取り組むことを思案していた際、懇意にしていたある企業の重役に「中村君、陶芸は最高の趣味だよ」と言われたこと。「その言葉にほれたんです」と振り返る中村さんは、それまでの仕事に代わり、陶芸一筋に打ち込んできた。
昭和20年、和歌山大空襲で和歌山市が焼け野原になった頃、「どこからか炊き出しの雑炊を載せたリアカーがやって来たが、入れ物が何一つないので、靴に雑炊を受けました」と、つらい記憶を鮮明に覚えている。
終戦当時、15歳だった中村さんは親類のバラック建築を手伝った。手際よく作業をする様子に「実さんは器用ね」と感心され、「紳士服の仕立てを習ったら」との知人らの勧めを受けて紳士服店に弟子入り。5年間懸命に修行に励んだ。
戦後の日本が高度成長を遂げていく中で、中村さんが手掛ける紳士服は「しゃれている」と評判を呼び、25歳で県庁前に開業した「中村洋服店」は繁盛した。
眠る時間も惜しんで仕立ての仕事に打ち込んでいた38歳のころ、「君の商売も終わったな。ジーンズショップを始めなさい」と晴天のへきれきのような言葉を浴びた。上得意の顧客であり、後に備前焼を勧めた企業の重役が、既製服が主流となる時代への移り変わりを見据えて伝えた、先見の明に富む一言だった。
40歳で開業したジーンズショップ「オリエント」の経営は順調に進み、店を譲ってからの後半生は陶芸の道へ。この選択もまた、あの重役の「60歳からは世のため、人のためにお返しをしなさい」との言葉通りに歩み出したものだった。
備前焼を仕上げるには5日間、休むことなくアカマツのまきを窯にくべ続けて焼成する必要がある。その手間隙かかる工程を経て出来上がる作品を中村さんは「土と炎の芸術」と呼び、「備前焼はやればやるほど楽しい最高の趣味です」と目を細める。
手作業の厳しい温度管理の末に完成する作品の表面には、金色やこげ茶、赤茶色などのまだら状の模様が現れる。高温の窯の中で、まきに用いるアカマツの松ヤニが溶けて土に付着した後、さらに溶けたものであり、作品に絶妙な風合いをもたらす。
中村さんは数え切れないほどの作品を制作したが、95%ほどは人に譲り、「ぜひ有償で」と懇願された場合にも、先方に「本当にそれでいいのですか」と恐縮されるような値段で渡してきたという。
体力の限界を感じるようになり、窯を閉じようと考えた中村さんだが、弟子の得津修司さん(69)らの申し出を受け、譲ることを決意。心血を注いだ創作の場は、これからも受け継がれていく。
今月には弟子たちによる窯の火入れに立ち会った。「間違っていなかったと思える人生を送れたのは、折々に指針を与えてくれた方との、良き出会いに恵まれたおかげです」と中村さんは柔らかな笑みを浮かべる。