日々歌える代表曲に 大和艦隊鎮魂の歌②

「あの戦争の歴史を風化させないよう、歌を通じて若い世代に発信したい」。平和祈念展望台奉賛会の岩田会長からイメージソング作りを依頼された宮井さんは一瞬、言葉に詰まった。これまでもテレビ番組や観光PR、プロサッカーチーム鹿児島ユナイテッドFCの応援歌などイメージソングは何十曲と作ってきたが、指名されたうれしさの半面、「戦争のことなど何も知らない自分に書けるのか」と不安がよぎった。

岩田会長の話を聞きながら、誠実な人柄とともに展望台への想いが伝わった。宮井さんは一つだけ条件をつけ、「ぜひ挑戦させてください」と引き受けた。その条件とは、イメージソングにありがちな作って終わりの歌ではなく、日々のライブでもしっかりと歌える曲にすること。それは岩田会長にではなく、プロとしての自分に対する条件であり、作るからには代表曲にしようという強い気持ちの表れだった。

和歌山県美浜町出身の宮井さんは、地元の松洋中学校を卒業後、兄と同じ和歌山工業高校に進学し、それまで経験のなかった野球部に入った。3年間でレギュラーにはなれなかったが、寮の仲間に教わってギターを覚え、当時人気の尾崎豊などをコピーしながら、我流で曲を作るようになった。

鹿児島第一工業大学1年のとき、福井出身の倉田暁雄さんと伝説のユニット「なまず」を結成。鹿児島市の繁華街「天文館」で毎週土曜深夜にストリートライブを始めた。1回目は3人しかいなかった客が5回目には100人を超え、他のストリートミュージシャンがゆずや長渕剛をカバーするなか、オリジナルを歌うなまずの人気はうなぎのぼり。そのまま一気に上京、夢のメジャーデビューを果たした。

しかし、東京では事務所の方針により、2人の役割が入れ替えられてしまった。メインボーカルだった宮井さんはコーラスに回り、ステージでしゃべることも許されなくなった。「いま思えば、それがなまずを売り出すための最善の策だったんだと納得できますが、当時はそれがどうしても理解できなくて…」。鹿児島時代からのファンは潮が引くように離れ、結局、なまずはメジャーデビューから約3年8カ月で解散した。

一から音楽をやり直そうと、自分を認めてもらえなかった東京を引き揚げ、平成17年4月、鹿児島で活動を再開した。これまでシングル5枚、アルバム4枚を発表し、九州各地、離島のイベント出演、全国ツアーを回りながら、毎年、ワンマンライブの会場を少しずつ大きくしてきた。2年目は客席が50人の小屋だったが、4年目には200人、6年目には600人のホールとなり、昨年は1000人のライブを成功させた。今年は10月1日、県内で2番目に大きな宝山ホール(1502席)の満員を目指す。

東京で挫折を味わい、ソロとして原点に帰って13年目。秋の宝山ホールには並々ならぬ思いがある。「メジャーではない自分が1500人を動員できれば、その先にあるものがはっきりと見えてくるはず」。鹿児島を拠点に全国各地を駆け回り、さまざまな人と出会い、まいてきた種が確実に芽を伸ばし始めた。今回の岩田会長との出会い、作曲の依頼もまさしく、飛躍へのチャンスとなった。

まずは戦争の歴史を知らなければ。曲作りに入る前の今年1月、岩田会長の紹介で、東京に住む第二艦隊生存者の池田武邦さん(93)に話を聞けることになった。(続く)

ライブハウスで歌う宮井さん(平成25年4月、和歌山市の本町ラグタイム)

ライブハウスで歌う宮井さん(平成25年4月、和歌山市の本町ラグタイム)