西条藩を知る(1)愛媛県西条市「西条藩」の歴史

 74週にわたりお伝えしてきた「家康紀行」に続き、今週から「西条藩を知る」と題したシリーズを始めたい。愛媛県西条(さいじょう)市は紀州藩の支藩として栄え、かねてから紀州とのつながりが深い地域であることをご存じだろうか。和歌山市から西へ約200㌔離れた西条市の歴史と魅力を取り上げる。
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 西条市は愛媛県の東部、東予(とうよ)地方に位置する。人口は約10万6000人。松山市、今治市、新居浜市に次ぐ、愛媛県内で4番目の人口。瀬戸内海に面した穏やかな気候であるが、山間部は積雪がありスキー場があるほど。隣の今治市から瀬戸内海を経て尾道市へと続く「しまなみ海道」があり中国地方からのアクセスに優れた地域である。
 かつてこの地域は「伊予国西条藩」として、寛永13年(1636)から「一柳直盛(ひとつやなぎなおもり)」が治めることとなったが、入封の途上で没し、3人の息子により領地を分割。直盛の長男・直重(なおしげ)が藩主となるも、藩主を継いだ息子の直興(なおおき)が職務怠慢のため、寛文5年(1665)に改易処分となり、この地域は天領となった。
 5年後の寛文10年(1670)、紀州藩初代藩主、徳川頼宣の三男・松平頼純(よりずみ)が紀州藩の支藩として3万石で入封。紀州徳川家が途絶えた場合に備えるための、紀州徳川家の分家とされる。頼純の息子で西条藩2代藩主の松平頼致(よりよし)は、従弟にあたる徳川吉宗が将軍となったため紀州徳川家を継ぐこととなる。名を徳川宗直(むねなお)と改め、紀州藩6代藩主として41年にわたり紀州の地を治めるなど、本家とのつながりの深さがうかがえる。
 西条藩は版籍奉還まで10代にわたり、紀州藩の支藩として治められ、西条市内には現在もその歴史が息づいている。 (次田尚弘/西条市)