西条藩を知る(2)紀州藩からの出向者が活躍

 前号より「西条藩を知る」と題し、寛文10年(1670)から版籍奉還までの約200年間、10代にわたり紀州藩の支藩として栄えた愛媛県西条市の歴史を取り上げている。
 西条藩2代藩主の松平頼致は、従弟にあたる徳川吉宗が将軍となった際に紀州徳川家を継ぎ、紀州藩6代藩主徳川宗直と改め本藩である紀州を治めるなど、本家とのつながりが非常に強かったとされる。
 西条藩に残る「文化七年御家中官禄人名帳」によると、藩主に限らず家来衆の人的交流も盛んであったことがうかがえる。文化7年(1810)当時、紀州藩から27人が西条藩士として西条藩に入り、中には家老を務める者もいた。いわば本家からの出向のようなもので、西条藩の上級藩士は紀州藩で占められていたという。そのため、藩士とその家族らが江戸を行き来する際は紀州に立ち寄るなど、紀州と西条の結び付きは強いものであったという。
 また、これらの藩士がもらう俸禄(給与)は紀州藩から支給され、それに加え豫州(よしゅう)と呼ばれる西条藩からの俸禄もあったという。豫州(予州と書くこともある)とは西条藩のことで、両藩から禄が支払われるこの制度はまれなものであったとされる。
 人だけでなく、藩財政についても本藩からの支援を受けていたという。西条藩初代藩主の松平頼純は西条へ入る前の寛永8年(1631)から紀州藩内で5万石を分知されていた。西条藩へ入るにあたり分知されていた領地を返し、西条藩3万石の領地を手にするも、差額として2万石が発生。この差額を紀州藩からの支給により補填されることとなり、合力米の名称で、紀州藩の財政状況により支給量は変動するも支援は版籍奉還まで続いたと、南紀徳川史に記されている。     (次田尚弘/西条市)