監視の役割、岸和田城の歴史
「世界に一番近い城下町」として、第26回KIX泉州国際マラソン(ハーフ)のゴール地点となった岸和田城。大阪城と和歌山城の中間地点に位置する岸和田城の歴史をひもとくと、その発展には紀州(和歌山)との深い関係が見えてくる。
岸和田城は岸和田駅から北西へ約700㍍、蛸地蔵駅から北へ約300㍍に位置する。南海電鉄の車窓から天守を見たことがある方も多いだろう。天守は1954年に復元されたもの。城跡は大阪府の史跡に指定され、庭園は国の名勝となっており、桜の季節には多くの観光客でにぎわう。
岸和田城の歴史は、1334年ごろ、和泉国守護の楠木正成(くすのき・まさしげ)のおいにあたる、和田高家(にぎた・たかいえ)が現在の位置から東へ約500㍍の所に岸和田古城を築城したことに始まる。
当地が「岸」という名称であったことから「岸の城」ともいわれ、和田氏が治める地となったことに由来し「岸和田」の地名になったとされる。
その後、和泉国守護が山名氏清(やまな・うじきよ)となり、家臣である信濃泰義(しなの・やすよし)が統治することとなり、城郭を現在の位置へ移築したという。猪伏山(いぶせやま)という小高い丘に位置し、本丸と二の丸を重ねた形が、機(はた)の縦糸を巻く「ちきり」に似ていることから「千亀利(ちきり)城」と呼ばれるようになった。
大きな転機が訪れたのは、秀吉による紀州征伐の頃。紀州征伐の拠点として、岸和田藩の初代藩主となる小出秀政(こいで・ひでまさ)により、5重の天守を持つ本格的な構えに発展。以後、松平氏の時代に城の総構えと城下が、岡部氏の時代には外堀と寺町が整備され、紀州を監視する役目を担った。(次田尚弘/岸和田市)