紀州から「熊野杉」を移植
前号では、水戸藩2代藩主で水戸黄門の主人公として知られる徳川光圀(1628―1701)の生誕から、藩主に就いて初期の政策や城下町整備の実績について取り上げた。光圀の城郭整備の中で、紀州藩とのつながりを感じさせる記録がある。今週は、水戸城二の丸へと登城する際に潜る通用門として設けられた「杉山門」を紹介したい。
杉山門は水戸城二の丸の北口に位置する。寛永2年(1625)初代藩主の頼房が行った水戸城大改修により整備された、城下町から城内へと続く杉山坂という急な上り坂の先にあり、敵の侵略を防ぐ要所とされた。門の内側には土塁で枡形が造られ敵の侵略を遅らせる工夫がされていたという。
杉山坂の中ほどには「矢来門(やらいもん)」という門があり、そこから杉山門までの間に、駕籠や馬から降りることを促す「下乗札」や「下馬札」があり、城への重要な玄関口であった。この道路が整備されたのは頼房の時代であるが、これに工夫を加えたのが光圀である。
光圀は道路の周囲に杉林を設けることとし、紀州産の熊野杉を取り寄せ植樹したという。やがて植樹した杉が育ち、杉山門の周辺は大きな杉林を形成。杉山門や杉山坂という名が光圀による植樹の前からか、杉林ができてから付けられたのかは定かでないが、紀州から移植された大量の杉が水戸城の防衛に一役買ったことは間違いなさそうだ。
光圀が藩主に就任した寛文元年(1661)、紀州藩では頼宣の時代。光圀が伯父を慕い杉の移植を求めたのか、従兄弟にあたる紀州藩2代藩主の光定との関係からなのか、その時期は不明確であるが、徳川御三家として紀州とのつながりがあったことは確かである。 (次田尚弘/水戸市)