光圀の修史事業『大日本史』
前号では水戸藩2代藩主・徳川光圀の城閣整備の中で、紀州から熊野杉を取り寄せ、城内に植樹したという歴史を取り上げた。
水戸徳川家としての成り立ちを確固たるものにした、光圀の事業として知られる『大日本史』と呼ばれる歴史書の編さんは、光圀の没後も、二百数十年に渡り継続して行われるほどの一大事業。今週は、大日本史に懸けた光圀の思いを紹介したい。
大日本史は、初代天皇である神武天皇から、100代天皇である後小松(ごこまつ)天皇までの百代に及ぶ天皇の治世を扱った歴史書。全397巻226冊で構成され、明治39年(1906)水戸藩10代藩主・徳川慶篤(よしあつ)の孫にあたる徳川圀順(くにゆき)が完成させた。
これらの修史事業の契機は、光圀が18歳の時に読んだ中国の歴史書『史記』に感動し、日本の史書を編さんしたいと考えるようになったとされ、歴史を振り返ることで、直面する課題を解決するための行動指針にしたいという考えがあったという。
明暦3年(1657)、光圀は修史事業のための史局を、江戸の駒込邸の一部に開設。藩主就任後は事業が本格化し史局を小石川邸に移し、彰考館(しょうこうかん)と名付けた。元禄3年(1683)、光圀が隠居した後は、主な史局員を水戸城内へ移転させ水戸彰考館を立ち上げた。
光圀の死後、正徳5年(1715)本記・列伝の完成をもち、修史事業は完了(最終的には明治まで続く)とされ、3代水戸藩主の徳川綱條(つなえだ)が『大日本史』の名を定めた。
これらの活動は水戸藩の政治思想「水戸学」の基礎となる学問として明治まで続き、政治を執る者の行動指針を作ろうと企画した光圀の思いが後世に受け継がれるものとなった。
(次田尚弘/水戸市)