光圀と史館員の関係と歴史

 前号では徳川光圀が行った修史事業である『大日本史』の編さんについて取り上げた。古典研究をはじめ、さまざまなことに好奇心旺盛であった光圀は、日本各地に藩士を派遣し調査や研究を行ったとされる。今週は、光圀が講談や歌舞伎、ドラマの主人公「水戸黄門」として描かれた背景を紹介したい。
 修史事業を目的に設けられた「彰考館」の史館員で、光圀の側近として知られる儒学者佐々宗淳(さっさむねきよ)は幼名の島介にちなんでか、通称・介三郎(すけさぶろう)と呼ばれ、水戸黄門で光圀の傍に仕える、佐々木助三郎(助さん)のモデルとなった人物とされる。
 助さんと同じく光圀に仕える、渥美格之進(格さん)のモデルとなったのは、同じく彰考館の史館員で佐々宗淳の同僚である安積澹泊(あさかたんぱく)。佐々宗淳は、「友人として、おおらかで正直、細かいことにこだわらない、よく酒を飲む人」などと安積澹泊を称しており、光圀を取り巻く両者の関係がよく分かる。
 各地を歴訪した史館員であるが、実際のところ光圀が各地を巡ったという記録はなく、旅した範囲は、日光や鎌倉、金沢八景、房総など、関東周辺の範囲に限られている。
 しかし、新しいもの好きの性格から、餃子、チーズ、牛乳酒、黒納豆などの外来品を日本で初めて食べたという記録や、オランダ製の靴下の着用、インコの飼育など、未知のものを取り入れるという積極性が際立ち、さらに、五代将軍・徳川綱吉が出した「生類憐みの令」を無視するなど、将軍に物申せる存在であったという。
 史館員の各地歴訪と光圀の際立った行動の数々が、水戸黄門という物語を生み出し、庶民に慕われる存在となったのだろう。(次田尚弘/水戸市)