まだ見ぬ被爆者の兄 残されていた組織標本
75年前に広島に投下された原子爆弾によって兄を亡くした和歌山県和歌山市のフリーアナウンサー・小林睦郎さん(75)のもとに、兄・茂美さんの体の一部が残されているという知らせが届いた。人体への放射線の影響を研究するため、被爆者の死後、病理解剖によって作成された組織標本の中に茂美さんが含まれており、経年劣化が進む標本を後世に引き継ぐ取り組みを広島大学が始めたことで、小林さんが知るきっかけとなった。
【標本をデジタル化 原医研の取り組み】
同大原爆放射線医科学研究所(原医研)によると、広島に原爆が投下された1945年(昭和20)8月6日の直後から、原爆による影響の調査が行われ、カルテや解剖記録、写真、標本などが残されたが、これらの資料はアメリカ軍に持ち去られ、日本人による研究や発表は規制された。73年になって資料はようやく日本に返還され、現在は原医研に保管されている。
資料の内容は、英語の医療記録9060人分、顕微鏡スライド標本669人分など。被爆後早期の放射線による症状を示す、医学的にも歴史的にも貴重な資料だが、被爆から75年を経て、スライド標本の一部は経年劣化により顕微鏡で十分に見ることが難しくなっている。
そこで原医研は、45年末までの最も早い時期に解剖が行われたスライド標本135人分(約2500枚)をデジタル化し、データベースを作成することで後世に残すためのクラウドファンディングを、ことし7~9月に実施した。
この取り組みを取材したテレビ局のディレクターが、135人の遺族を探す中で、弟の小林さんにたどりついた。
【茂美さんの被爆死 会えなかった兄弟】
茂美さんは26年生まれ。兵庫師範学校在学中に徴兵され、和歌山の部隊に入った後、7月に広島への転属が決まり、8月6日に被爆した。
広島に新型爆弾が落とされたとのニュースを知った父・鶴雄さんは、息子の安否を心配して単身広島へ向かった。焼け野原とがれきの中を歩き回ったが、手掛かりはなく、一度は帰宅。親戚に手助けを頼んで再び広島へ行き、倉庫を改造した名ばかりの病院の中で、背中一面にやけどを負った茂美さんを見つけた。
9月12日に小林さんが生まれ、病床でその知らせを聞いた茂美さんは「帰ったら弟に会えるなあ」と話していたが、10月2日、19歳で亡くなり、兄弟は会うことができなかった。
【コラムきっかけに 孫へと語り伝える】
わかやま新報で2007年から続く小林さんの連載「むつろうのつれもてトーク」。8月には毎年のように兄や父、原爆、戦争への思いを書きつづってきたコラムは、茂美さんの遺影とともに国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市)に所蔵されている。
クラウドファンディングを取材したディレクターは、祈念館でコラムを読み、9月上旬に小林さんに連絡してきた。
原爆投下と敗戦から75年の節目に、兄の体の一部が現存していることを知り、小林さんは驚きとともに「うれしい。父もそんなことは話しておらず、全く知らなかった。兄に〝会いたい〟」と強く思った。
原医研に連絡すると、まだ標本の開示の準備はできておらず、茂美さんに会うことはできないということだったが、小林さんの娘が大学生の娘(小林さんの孫)にぜひ語り伝えたいと言い、妻と娘、孫の3世代4人で広島へ行き、祈念館などを訪ねた。
「偶然が幾つも重なって、知らなかった兄のことを教えてもらえた。小林家のファミリーストーリーを娘、孫に伝えることができ、孫も感動していた」と小林さんは喜ぶ。
生前、小林さんを茂美さんの「生まれ代わり」だと言っていた鶴雄さんの仏前にも伝えた。将来、茂美さんとの出会いが実現し、改めて父に報告できることを願っている。