家康紀行⑥徳川家の菩提寺

前号では徳川家代々の祈願所として創建され、勝運出世・開運発展の神として人々の信仰を集める「伊賀八幡宮」の歴史と数々の伝説について取り上げた。

家康が桶狭間の戦いで追手を逃れて軍を引き返した際、伊賀八幡宮の神使のシカが松平家・徳川家の菩提寺へ家康を導いたという伝説は前述の通り。今週は伊賀八幡宮と同じく親忠公により創建された大樹寺(だいじゅじ)を紹介したい。

大樹寺創建は、応仁元年(1467)親忠が付近で起きた井田野合戦の死者を弔おうと千人塚を築いたが、後に塚が鳴動し悪病が蔓延(まんえん)する奇怪な現象が起きたため、さらに亡霊を弔うため勢譽愚底上人(せいよくていしょうにん)を招き念仏を唱え霊を鎮めたことに始まる。

文明7年(1475)親忠は勢譽愚底上人を開山とする大樹寺を創建。大樹とは征夷大将軍の官名(唐名)であり、松平家から将軍が生まれることを祈願して名付けられたといわれる。

桶狭間の戦場から引き返してきた家康が寺に逃げ込み、寺を追手に包囲された際、先祖の墓前で自害を図ろうとした家康を時の住職・登誉上人が浄土宗の教えとされる「厭離穢土欣求浄土」を説き、家康自らが太平の世を作る努力をしてはどうかと自害を思いとどめさせたという。以来、この教えは家康の座右の銘になったという。

家康は遺言として家臣らに「予の遺体は久能山(静岡)へ埋蔵せよ」「位牌は三河の大樹寺へ安置せよ」と残し、家臣らはそれに従い家康の位牌を納め、代々の将軍においても同様に位牌が納められ、その位牌は等身大に作られ大樹寺に安置されている。

境内に建つ多宝塔や壁画などは国の重要文化財に指定。人々の信仰を集めている。

大樹寺の山門

大樹寺の山門

(次田尚弘/岡崎市)