真田探訪④ 夏の陣決戦の地「四天王寺」
前号では時を変え、家康と幸村が大坂の陣で本陣を構えた茶臼山(天王寺公園)について取り上げた。
大坂冬の陣は、豊臣方が城の縮小と家臣を人質として徳川方へ出すことを条件に、豊臣秀頼の安全と籠城浪人を不問とすることで和睦が成立したが、その後まもなくして大坂夏の陣が勃発。幸村が最期を迎える戦いが始まった。今週から大坂夏の陣に縁がある名所を紹介したい。
前号で紹介の茶臼山から北東へ約400㍍。ここに幸村が伏兵を構えていた「四天王寺」がある。伏兵とは戦闘が起きることを予期し、敵の不意を突くために待ち伏せをする兵のこと。幸村は、真田十勇士の一人とされる家臣・穴山小助(あなやまこすけ)を自らの影武者として出陣させたといわれる。穴山小助は背格好が幸村と似ていたことから幸村を装い徳川方へ交渉に行かせたり、徳川家の重臣である本田忠朝(ほんだただとも)と幸村による一騎打ちの際は密かに幸村と入れ替わり「われこそが正真正銘の真田左衛門佐なり」と名乗り奮闘したという説がある。他にも幸村には影武者が7人ほど存在したとされ、これは戦上手の幸村ならではの作戦であったのかもしれない。
四天王寺の南西側入口にあたる石鳥居周辺は、茶臼山方面から攻め入る徳川方と豊臣方の伏兵がぶつかり決戦の地となったところ。現在も天王寺公園方面から訪れる参拝者らでにぎわっている。なお、石鳥居は1294年に建てられたもので国の重要文化財に指定されている。
日本書紀によると四天王寺は今から1400年以上前の推古天皇元年(593)、聖徳太子により建立され、度重なる戦火や災害に見舞われながらも創建当時の姿が忠実に再現されており、古代の建築様式に触れられる貴重で由緒あるお寺。「天王寺」の駅名の由来とされる四天王寺へぜひ拝観を。
(次田尚弘/大阪市)