家康紀行(57)居城「名古屋城」築城の歴史

 前号では、牧之原の茶畑開墾を許可し、紀州の海防にも尽力した勝海舟を取り上げた。今週から舞台を名古屋市へ移し、尾張徳川家の歴史に迫る。そこには紀州徳川家との縁もある。まずは名古屋城の歴史を紹介したい。
 名古屋城は名古屋市の中心部に位置する。金の鯱鉾にちなみ金鯱城(きんこじょう)、金城(きんじょう)とも呼ばれる。名古屋城の前身にあたる那古屋(なごや)城は今川氏親(今川義元の父)により築城。享禄5年(1532)、織田信秀(織田信長の父)の策により当時の那古屋城主の今川氏豊を追放し居城とした。天文3年(1534)生まれの信長がこの城で生まれたという説もある。
 信秀から後を継いだ信長は那古野城の北西に位置する清州城に拠点を移し、天下統一に向け、小牧、岐阜、安土へと居城を変え、やがて那古野城の役割が薄れたことから天正10年(1582)ごろに廃城。周囲はキジが多く住む野原と化したという。
 その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで勝利を得た家康が豊臣秀頼との衝突に備え、江戸城や彦根城、駿府城など多くの城の築城や拡張を進めた。当時、清州城主であった福島正則を安芸国・備後国へ転封し、家康の第4子である松平忠吉を配置。しかし、忠吉が病死したことから家康の第9子である徳川義直が入城。ここから、尾張徳川家が始まる。
 清州城は尾張国の中心でありながら大軍を備える敷地がなく、さらに低地であることから水害に見舞われることが多々あったとされる。そのため、家康は清州城に代わる城を建てようと那古野城跡地に目をつけ、慶長14年(1609)11月、名古屋城の築城を発令。翌年1月、将軍の徳川秀忠が西国大名20人に名古屋城の普請を命じ築城が始まった。
   (次田尚弘/名古屋市)