徳川頼宣と岸和田藩・岡部宣勝

前号では、岸和田城から紀州征伐へと向かった秀吉軍と、根来衆・雑賀衆の攻防を取り上げた。
紀州征伐は終わりを迎え、副将として参陣していた秀吉の弟・秀長が、秀吉の命により和歌山城を築城。天正14年(1586)、秀長の家老を務めた桑山重晴(くわやま・しげはる)が3万石で城代となる。
その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで武功を上げた桑山氏は大和新庄藩(布施藩)へ転封となり、同じく武功を上げた浅野幸長(あさの・よしなが)が37万6千石で初代紀州藩主として入城。慶長10年(1605)、天守が建てられたという。元和5年(1619)、浅野氏は広島藩に転封となり、代わって家康の十男・頼宣が55万5000石で入城。御三家の一つ、紀州徳川家の成立となる。
元和7年(1621)、頼宣は兄で2代将軍であった秀忠より銀5000貫をもらい、城の改修と城下町の拡張を開始するも、外堀を拡張し総構えにしようとの画策が幕府より嫌疑をかけられ中止。「堀止」の地名が残る由来でもある。
岸和田城では、寛永17年(1631)に岡部宣勝(おかべ・のぶかつ)が6万石で入城。和泉岸和田藩の初代藩主となり、以後13代にわたり、岡部氏の居城となった。
一説によると、宣勝は時の将軍・徳川家光からの信頼が厚く、幕府により紀州徳川家を監視する目的であったという。
江戸城で宣勝と頼宣が出会った際、頼宣が「岡部氏が和泉に居られるのは、われらのおさえのためと聞いているが」と尋ねた。それに対し、宣勝は「大身のあなたをおさえるなどとんでもない。せいぜい、足の裏に米粒が付いたくらいのことでしょう」と、小藩の意地を込め返答したという。
紀州藩のお目付け役。岸和田城と和歌山城の深い関係が見えてくる。
(次田尚弘/岸和田市)