流行の先端駆け抜けて 地域に愛された朱洸
“アイビー”“パンタロン”“ニュートラ”と聞いて、懐かしいと感じる人はまさに「朱洸世代」かもしれない。和歌山市のぶらくり丁商店街で半世紀以上にわたって地域に愛され、31日で閉店するファッション衣料の朱洸ビル。時代の最先端の流行ファッションを紹介し、アパレル産業をリードしてきた朱洸の閉店に惜しむ声が広がる。昭和、平成をともに歩んだ朱洸の歴史を振り返る。
【明光商店街で産声】
1948年、和歌浦の明光通り商店街に、創業者の辻恒文会長(95)が「いもおと」の名で衣料品店を開いたのが始まり。店名は辻会長の父親がその昔、水軒で「芋屋の音吉」の屋号でサツマイモの仲買いをしていたことから、屋号を継ぐ形で商売を始めた。
明光通りの店舗は辻会長の母親が1914年から雑貨店を営んでいた場所で、戦争から戻った辻会長が戦後の物資不足の中、衣料や下駄などを販売。仕入先は大阪で、南海和歌山市駅まで自転車、そこから電車で大阪に向かい、風呂敷に大量の衣料品を詰め地元に持ち帰った。
当時、衣料品の販売形態は顧客によって値段を変え、支払いも年に1、2回の「掛け売り」が主流だったが、辻会長は大阪のコンサルティング会社で経営を学び、県内で初めて商品に正札を付ける「セルフ販売」を始めた。これは誰もが同じ値段で、自ら商品をレジまで持って行き購入するという現在に通じる販売方法で、販売の効率化と地域の人の信頼を得ることとなった。
【女性バイヤーが活躍】
その後、59年にぶらくり丁に「いもおと」(現エルビアン)を新たにオープンし、当時では珍しい女性バイヤーが商品を買い付け、最先端のファッションを紹介した。
丸正をはじめぶらくり丁全体が活気にあふれていた時代。当時は「よそ行き」の格好で出掛ける特別な場所だった。辻会長によると、同店も28秒に1回のペースでレジが稼働するほど、店内は買い物客であふれたという。
3年後の62年、現本社ビルの前身となる最初のビルが完成し、さらに6年後にはビルが増築され現在の形となり、店名も「朱洸」と改名し、ぶらくり丁周辺を代表するファッションビルとして新たなスタートを切った。
「朱洸」という名は、辻会長が京都の伏見稲荷大社に出掛けた際、キラキラ光る水面とそこに映る鳥居の朱色を見て思いついたという。
朱洸では最先端のファッションを求める若者が毎日のように買い物を楽しみ、下着やフォーマルウェアまで豊富な品ぞろえで店内は活気に満ちていた。