水戸学を重んじる、9代藩主・斉昭

前号では、徳川光圀による修史事業として代々受け継がれることとなった「水戸学」と、それにちなんで整備された「水戸学の道」を取り上げた。
地元の観光協会などが作成した散策マップでは、光圀の足跡を辿るルートに加え、水戸藩9代藩主・徳川斉昭(なりあき)や、15代将軍・徳川慶喜の歴史にふれるルートも設定。今週は、徳川斉昭の歴史を紹介したい。
徳川斉昭(1800―1860)は、水戸藩7代藩主・徳川治紀(はるとし)の三男。15代将軍・徳川慶喜の父としても知られる。
8代藩主の徳川斉脩(なりのぶ)が継嗣を決めず病に伏せたことから、11代将軍・徳川家斉(いえなり)の第20子で、後に12代紀州藩主となる徳川斉彊(なりかつ)を斉脩の養子に迎える動きがあったが、学者や下士層による斉昭を推す動きが勝り、また、斉脩の遺書により斉昭が家督を継ぐこととなった。
これらの動きで斉昭を推した藩士らを藩政改革に登用し、藩校として「弘道館」を設立するなど、光圀の時代に始まる水戸学を重んじた。水戸学に習い、尊王攘夷を唱えたことから、大老の井伊直弼と対立。さらに、将軍継承問題では実子である慶喜を推す一橋派を形成し対立は深まった。
孝明天皇が水戸藩に幕政改革を指示する勅書「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」を出したことが契機となり、安政の大獄により蟄居(ちっきょ)を命ぜられ、蟄居の処分が解けぬまま急逝している。
幕末の混乱期を生き抜いた藩主としてのイメージが強いが、水戸では領民の休養の場として日本三大名園といわれる「偕楽園」を造営するなど、その藩政は現代に残る。(次田尚弘/水戸市)