梅林で知られる「偕楽園」の歴史
前号より、15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)の父で水戸学を重んじた、水戸藩9代藩主・徳川斉昭(なりあき)の生涯を取り上げている。
幕末の混乱期を生き抜き、日本三大名園の一つ「偕楽園」を造園した人物としても知られる。今週は偕楽園の造園の歴史を紹介したい。
偕楽園は水戸駅から西へ約2㌔に位置する都市公園。天保13年(1842)の造園当初は14・7㌶であったが、平成5年(1993)、偕楽園から南東にある周囲約3㌔の千波湖を含む大規模公園として整備されたことで300㌶の面積を誇る「偕楽園公園」を形成。ニューヨークのセントラルパークに次ぐ、世界第2位の都市公園となった。また、平成27年(2015)、近世日本の教育遺産群として日本遺産に認定された。
偕楽園の造営は、斉昭が藩主として水戸へ入った天保4年(1833)に考案された。領地を巡回した際、眼下に千波湖が広がり、筑波山や太平洋を望む景勝地として目を付けた。
当時は大飢饉(ききん)が起きており計画を進めることが難しく、翌年、まずは数多くの梅の木を育てることから着手。天保12年(1841)より造園工事を開始し、翌7月1日に開園。
偕楽園の名は、孟子の「古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能(よく)楽しむなり」から取られ、領民と偕(ともに)楽しむ休養場所と位置付けられた。
斉昭は偕楽園造園までの8年間に、全力検地や藩主の土着、藩校などの学校整備、江戸定府制の廃止を掲げ実行。天保の改革に影響を与えたとされる斉昭の、偕楽園に込めた真の思いに迫りたい。
(次田尚弘/水戸市)