市野々地区で救助に奔走 消防団の貝岐さん

「大変ということが分からなかった。心に余裕がない。あっちへ走り、こっちへ走り、必死だった」――。2011年9月4日未明、和歌山県那智勝浦町市野々の貝岐(かいはみ)昌志さん(71)は町消防団第4分団の分団長として、猛烈な雨の中を那智川流域で救助活動に当たっていた。

貝岐さんは生まれた時から市野々地区で暮らし、70歳で定年を迎えた一昨年まで、48年にわたり町消防団の活動を続けてきた。気象警報が発令されると、警戒出動で消防団の屯所に待機し、救助や避難誘導などの発生に備えるのが常で、大水害発生の夜もそうだった。

救助要請の連絡が入り、出動したが、要請先の家の周囲は浸水し、水の流れも速く、近づくことができなかったため、機材を取りに戻っていくと、通ってきたばかりの道が鉄砲水でなくなっていた。

下流側は現在の紀伊半島大水害記念公園(井関地区)付近、上流側は土石流が起こった町立市野々小学校付近までの800㍍ほどの範囲が分断された。

停電で何も見えない中、無線には救助要請が入ってくる。避難所に移動することもできない住民を分団の消防車に乗せて運び、近くの消防職員の家に受け入れてもらった。消防車の赤い回転灯を頼りに避難してくる住民もいた。

夜の間は全く分からなかった周囲の様子が朝になってようやく見えるようになり、初めて自分たちが置かれている状況を知った。「運が良かった。わずかな違いで自分も流されていたところだった。1分かそこらの差だったかもしれない」

「消防団の制服を着ると怖さがなくなる。使命感というか、心の構えが違ってくる」という貝岐さんは、使命感のままに、助けを必要とする住民のために必死の活動を続けた。

4日の朝があけてからは、避難者が集まっていた市野々小学校へと消防車で住民を運んだ。その後は休む間もなく、1週間以上にわたり自衛隊やボランティアらと共に行方不明者の捜索を続けた。

災害の全体像が分かったのはさらに後のこと。町全体の被害は、死者・行方不明者29人、家屋の全壊103棟、半壊・大規模半壊905棟。そのうち那智川流域で27人が犠牲となり、家屋の被害は550棟に上った。

水害後、新しい消防団員たちに伝えてきたのは、「普段から地形を知っておけ」ということ。地形の傾斜、水がどこから来て、どこへ流れていくかを把握しておけば、地域のどこに危険があるかが分かるようになる。

住民へのアドバイスは「過信しないこと」と。河川の水量などの情報は以前よりもずっと入手しやすくなったからこそ、油断や過信には注意が必要。「こんな経験をしたら、意識が全く変わる。怖さが分かる。警報が出たら避難する準備をして、とりあえず逃げること」と訴えた。

 

土石流を防ぐために建設された砂防堰堤を示す貝岐さん