和歌山大空襲から77年 語り継ぐ証言③
和歌山大空襲があった77年前、陸軍で米軍上陸に備える任に就いていた野村晴一さん(96)=和歌山市北新=は、7月10日朝に忘れられない光景を目にした。空襲の被害で電気が通っていないはずの南海電鉄の線路を、国鉄の蒸気機関車(SL)が客車を引いて走っていた。「凄惨な大空襲の直後、協力し合う2社の姿は希望の光のようだった」と振り返る。
野村さんは敗戦が近づく1945年、19歳で徴兵検査を受け、陸軍に入隊。本土決戦に備え沿岸防御の陣地を構築する護阪部隊に配属され、貴志小学校(栄谷)で寝泊まりしながら、和歌山と大阪をつなぐトンネルを掘る作業などに従事した。
大空襲の9日、野村さんは軍旗を守る任務を遂行していた。空襲警報の中、名前も知らない軍旗衛兵らと共に安全な場所へ軍旗を運ぶ途中、焼夷弾攻撃に遭遇。米軍機から大量に投下され、雨のように降り注いだ一つが隊列の一人を直撃し、命を奪った。
亡きがらに付き添いながら、野村さんは燃え盛る民家と逃げ惑う多くの人たちを見た。「お父さーん、お母さーん」と、親を探す子どもの泣き叫ぶ声は、今も耳に残っている。
翌10日午前8時ごろ、貴志小学校のグラウンドに集められた野村さんは、6月に受けた幹部候補生試験に合格したとの連絡を受けた。星の数が一つから三つに増えた徽章(きしょう)は、今も大切に手元にある。
列車を見たのはそのグラウンドから。貴志小近くを通る南海電鉄の線路上を、国鉄のSLが南海の客車2両をけん引していた。大阪方面へ避難すると思われる多くの人でひしめき、坂道のためか、重量オーバーのためか、ゆっくりとした速度で通り過ぎていった。
競合する同業の国鉄と南海が、大空襲の惨禍の直後に協力し合う〝奇跡〟のような光景に、野村さんは心を打たれ、今もはっきりとその姿を覚えているという。目的地は分からなかったが、「無事に着きますように」と心の中で願わずにはいられなかった。
戦争を風化させてはいけないと、慰霊祭などの地道な活動を続けてきた野村さんも、「参加する遺族は減り、私も年々弱ってきたよ。年には勝てない」と寂しそうに話す。それでも大空襲の日が近づくと、「戦争は二度としてはいけない」との思いを強くする。
南海電鉄によると、この日のSLの運行は社史などの記録で確認することはできなかった。戦火の混乱の中、目撃者の証言がなければ、歴史にとどめられることもない出来事は少なくないはず。
「名も知らぬ兵が亡くなったこと、ライバルの2社が協力して電車を走らせたことを見て知っている人はほとんど残っていないと思う。私が話すことで皆に知ってもらえれば」と野村さん。
和歌山大空襲を体験し、翌朝の希望のSLを目にした生き証人として、記憶を語り継ぐ決意を新たにしている。