人と物の流れを支えた「淡路鉄道」

前号では、大阪府岬町と洲本市を期間限定で結ぶ「深日洲本ライナー」による新たな人流の創出について取り上げた。航路で大阪南部とつながる洲本市の歴史をたどると、洲本港近くから淡路島を横断する鉄道が走り、旅客のみならず農作物などの物流の拠点であったことが分かる。今週は、淡路島を走っていた鉄道の歴史を紹介したい。
淡路島に鉄道があったことを知る方はどれほどいるだろうか。かつて、淡路島西岸の洲本市から東岸の南あわじ市福良を結ぶ23・4㌔の路線をもつ「淡路鉄道」があった。大正11年(1922)に開通し昭和41年(1966)に廃止されるまでの44年間、島の発展に貢献した。地元の有志らが出資者となり開通にこぎ着けたという。
開通当初は蒸気機関車による運行であったが、馬力があり速度の速いガソリンカーを導入。さらに昭和23年に輸送力を高めるため電化。淡路島を電車が走ることになる。大阪南部を走る南海電車で使用された車両が海を渡り、淡路島で活躍していたという。
洲本―福良間を50分程で結び17の駅があった。最盛期は一日に1㌔あたり5000人を超える旅客(輸送密度)、特産の玉ねぎを中心に年間約2万㌧の貨物を運んだ。
島内の人と物の流れを支えてきたが、国道の整備の支障となるなどモータリゼーションの波に押され、水害による長期運休なども足かせとなり、バス事業への転換を決定。昭和41年9月30日に営業最終日を迎えた。
かつての洲本駅はバスターミナルとして利用され、鉄道も廃止後も洲本市の中心地となった。現在、バスターミナルは近隣に移転したが、当時の建造物がその面影を残している。(次田尚弘/洲本市)