真田探訪⑦ 幸村・大助を祭る「心眼寺」
前号では、大坂夏の陣における最後の決戦「天王寺・岡山の戦い」での幸村の活躍(天王寺口の戦い)と最期を迎えた安居神社について取り上げた。
安居神社における幸村の死後、岡山口の戦いが繰り広げられた。天王寺口からの銃声を聞いた徳川秀忠は、本陣の進撃を命令。先鋒を務める前田勢が大野治房勢に崩され、井伊直孝勢、藤堂高虎勢が抗戦。混乱に乗じ豊臣方の大野治房勢が秀忠の本陣へ到達し大混乱となる。兵に混じり戦おうとする秀忠を本多正信が、将軍自ら手を下すようなものではないといさめたといわれる。
豊臣方の兵を防ぎながら本陣を後退させようとした秀忠であったが、徳川方の士気の低下を恐れ、数に劣る豊臣方の疲労状態を鑑み、陣を立て直し豊臣方へ反撃を開始。大野治房勢をはじめ豊臣方は大阪城内へ撤退を始める。
後詰めとして大野治房勢の後方に控えていた大野治長らは豊臣秀頼の出馬を待っていたが、秀頼が淀殿の制止を振り切るのに時間を要し、秀頼が出馬した頃には豊臣方の軍勢は勢いを取り戻した徳川方に総崩れして、おりなすすべもなく壊滅。豊臣方は城内に総退却した。間もなく真田勢を撃破した松平勢をはじめ、徳川方が城内に到達し城は炎上。慶長20年5月7日深夜に陥落し、一連の大坂の役は終わった。
命を落とした幸村と息子の大助を祭ろうと、真田丸跡地に堂舎を創建し現在の心眼寺が成立。寺の定紋を真田家の六文銭、山号を真田山とした。当時の大阪は江戸幕府の直轄地であったため幸村の墓の建立は許されず、没後400年目にあたる2014年に墓碑が建立された。豊臣家に忠誠を誓い、家族・親類を大切にした幸村の最期を弔いたい。
(次田尚弘/大阪市)