家康紀行⑲産湯として使われた「誕生井戸」

前号では三方ヶ原の合戦で敗走する家康が、楠の幹の洞穴に身を隠し武田の追手から逃れたとされる、浜松八幡宮の「雲立の楠」を取り上げた。合戦の後、武田軍は遠江国で年を越し元亀4年(1573)東三河へ侵攻し野田城を攻略するも、信玄の病状が悪化し甲斐国へ撤退。信玄はその帰路で息を引き取っている。
それから6年後の天正7年(1579)4月、後の第2代征夷大将軍である徳川秀忠(ひでただ)が、ここ浜松に産まれている。今週は今も残る秀忠公ゆかりの地を紹介したい。
徳川秀忠(1579―1632)は家康の三男に産まれ幼名を竹千代成と名付けられた。家康の長男・松平信康は武田軍への内通を疑った織田信長からの命により自害、次男の結城秀康(ゆうき・ひでやす)は豊臣秀吉の養子となったため、三男の秀忠が後継者となった。秀吉による小田原攻めの際、人質として10歳で上洛し元服。秀忠の名は秀吉から賜ったもの。
家康の側室である西郷局が秀忠を産んだ際、産湯として使われたという伝承をもとに造られた井戸が浜松市の中心部にある。実際にはこの地点から西へ約50㍍にあったとされ、当時は下屋敷が構えられていたという。
井戸は明治頃まで現存したとされ「誕生井戸」と呼ばれたことから、ここから北にある橋に「誕生橋」という名が付いている。徳川家ゆかりの地名が残り、第2代征夷大将軍を輩出したという浜松市民の思いが伝わってくる。
「誕生井戸」は遠州鉄道・遠州病院駅下車すぐ。高架下の小さなスペースだが、浜松城周辺の散策コースに設定され観光客らが訪れる。

(次田尚弘/浜松市)