家康紀行(43)家康埋葬の地「久能山」

前号では駿河湾を望む風光明媚(めいび)な日本平と、徳川家康の遺命により埋葬された久能山東照宮を空中で結ぶ、日本平ロープウェイの魅力を取り上げた。今週は久能山の歴史について紹介したい。
久能山は西暦600年ごろの推古天皇の時代、久能忠仁により開山。観音菩薩を安置し「補陀落山(ぶだらくさん)久能寺」と称したことから「久能山」と呼ばれるようになったとされる。
久能寺の周囲には330にも及ぶ多くの僧坊が建てられ、行基をはじめとした名だたる僧が訪れたという。嘉禄年間(1225年ごろ)、山麓の失火による類焼でかつての街並みは現存していない。
その後、永禄11年(1568)、領主であった武田信玄が要害である久能山に目をつけ山上に城砦を築き「久能城」と命名。久能寺は北東約3㌔の位置に移された。
天正10年(1582)の武田氏滅亡後は徳川家康の所領となり、家康の死後、久能城を廃止し東照宮が建てられた。家康もまた久能山の要害に目を付け、「久能山は駿府城の本丸と常に思召す」と言葉を残すほど、駿河の守りの要であると意識したという。それ故に自らの埋葬地として久能山を指定し、太平の世を願ったのだろう。
家康が死去した元和2年(1616)4月17日。家康の亡きがらはその日のうちに久能山に移し一部の側近以外は登山を禁止されたという。日本平の反対側にあたる久能山の南側(太平洋側)に登山口があり、現在も多くの人々が1159段の石段を登り東照宮を目指す。登山口の周囲には小さいながらも門前町があり、訪れた参拝者をもてなしている。(次田尚弘/静岡市)