家康紀行(61)「堀留」と「堀止」
前号では、名古屋城本丸御殿の対面所に描かれた約400年前の風俗図に、和歌山市が描かれていることを取り上げた。今週は名古屋城の城下町へとエリアを広げる。名古屋城の築城に合わせ造られた「堀川(ほりかわ)」と、その終着点にあたる「堀留(ほりどめ)」を紹介したい。
堀川は、名古屋城の築城と同じ慶長15年(1610)、福島正則により、海に面した熱田地区と名古屋城下を結ぶ水路として長さ約6㌔、幅は最大で約87㍍にわたり開削された。堀川の上端(源流)にあたる場所を、掘削した堀の終着点を意味する「堀留」とし、名古屋城外堀の「辰の口」と呼ばれる排水路とつながり、堀の水が堀川へ流入していたとされる。名古屋城下では物資運搬のための要所となり、川に沿って多くの豪商の家々と蔵が建てられたという。
堀川から1・5㌔ほど東を並走する「新堀川(しんほりかわ)」は明治43年(1910)に造られた河川。元々、熱田神宮の神職がみそぎを行ったとされる「精進川(しょうじんがわ)」が度々洪水を起こしていたことから運河として改修する計画が立てられ、新堀川として付け替えられたという。新堀川の上端という意味から、ここにも「堀留」の地名がつけられ、現在もその名が残っている。
和歌山市にも「堀止(ほりどめ)」の地名があることを読者の皆さまもご存じだろう。和歌川から新堀川を開削し外堀とし湊地区まで掘り進める途中、幕府から謀反の疑いがかけられ中断したことから「堀止」と呼ばれるようになったという。
同じ読みでも、都市計画に基づき堀川の開削を留め置いた場所を示す「留」と、開削を止めさせられた場所を示す「止」の字の違いから、その字に込められた意図や思いがうかがえる。
(次田尚弘/名古屋市)