家康紀行(62)「大須観音」家康の思い

前号では、名古屋城の築城に合わせ、都市計画に基づき開削された「堀留」の字と、やむなく開削を諦めた和歌山市の「堀止」の字に込められた意図や思いについて考察した。今週は、家康が貴重な古文書を後世に残そうと、名古屋城築城時に取り組んだ「大須観音(おおすかんのん)」の歴史を紹介したい。
大須観音は中区大須にある真言宗の寺。名古屋市で有数の観光スポットで門前にある商店街には外国人観光客の姿も目立つ。
当寺の開創は14世紀ごろ、「能信(のうしん)上人」による。開創は岐阜県羽島市。ではなぜ、現在の名古屋市に存在するのか。その鍵は家康にある。
大須観音では「古事記」などの重要な古文書が数多く写本されていたが、度々襲う水害により書物を失っていた。重要な古文書の存在を知った家康は水害から守り後世に引き継ぐものにしようと、慶長17年(1612)、寺と書物を現在の地に移転。以降、徳川家の庇護(ひご)を受けた。
本堂は戦災により焼失するも昭和45年に再建。貴重な古文書を所蔵する大須文庫には、国宝の古事記写本を始め1万5000冊が収められている。
貴重な資料を守り、それらを継承していこうとする家康の精神は代々受け継がれている。名古屋には尾張徳川家伝来の国宝や重要文化財を所蔵する「徳川美術館」、水戸には水戸徳川家の史料がみられる「徳川ミュージアム」がある。
紀州はどうか。徳川頼貞(よりさだ)により世界から収集された「南葵音楽文庫」がある。所蔵品の寄託を受け、平成29年12月から県立図書館内に閲覧室が設けられるなど、今その価値が注目されている。価値あるものを後世へ残す、徳川の精神がここにある。
(次田尚弘/名古屋市)