命を守る教訓刻む 11月5日世界津波の日 特集

ことしで生誕200周年 濱口梧陵に学ぶ

 

村人の命を守った広村堤防

 

 

百世の安堵を図れ

梧陵は1820年、分家濱口七右衛門の長男として広村(現・広川町)に生まれた。12歳の時に本家の養子となり、銚子(千葉県)での家業であるヤマサ醤油の事業を継いだ。54年(安政元年)に梧陵が広村に帰郷した時に安政の大地震が発生した。
稲むら火の館(同町広)によると、発生は午後4時ごろ。家が倒れ瓦が吹き飛んだ。「ドーッ」という大砲がとどろくような音が何度も聞こえ、黒いすじ雲が広がり、大きな津波が押し寄せた。「逃げろ、丘に上がれ。津波が来たぞ」と梧陵は叫び広八幡神社(同町上中野)へ避難を呼び掛けたという。
梧陵は、暗闇でどこへ逃げればいいのか分からないでさまよっている村人がいるかもしれないと考えた。「もったいないが、稲むらに火をつけよう」。積み上げられたすすきの稲の束に火をつけて回った。「庄屋さんの家が火事だ」。と村人が急いで火を目指して丘へ上がる。村人が避難を終えた時に大きな津波が押し寄せ、稲むらの火も消えた。
津波で家族や家、仕事を失った村人。「このままでは村が滅びてしまう、広村で生きていける方法はないか」。梧陵は浜に堤防を造ることを考える。村人に働いてもらい、賃金を払い生活に役立ててもらえれば、生きる希望が湧いてくる。村人は畑や漁の仕事をしながら3年10カ月をかけて長さ600㍍、高さ5㍍、幅20㍍の防波堤を築造し、海側には松の木、土手にははぜの木を植えた。
1964年(昭和21)12月21日に昭和南海地震が発生し、4㍍の津波が襲った。だが堤防に守られた地域は無事で見事にその役割を果たし同町の住民を守り抜いた。
広村堤防や避難場所となった広八幡神社、避難経路となった「大道」は、2018年に「『百世の安堵』~津波と復興の記憶が生きる広川の防災遺産~」として日本遺産に登録された。

村人が避難した広八幡神社

 

 

引き継がれる防災意識

広川町では小さい頃から梧陵について学ぶ機会が多く、村人の防災意識も高い。1年間に5、6回避難訓練を行う小学校もある。避難経路を家族と話し合い、いざというときのために備える。同町で生まれた85歳と76歳の男性2人は「昔から八幡に逃げろ、と言われて育った。学校には梧陵さんの写真が各クラスにあるのが当たり前だったよ」と話す。小学校で梧陵を題材に劇をした男性もいた。
結婚を機に岩出市から同町へ移り住んだ40代の女性は「防災意識がすごく高い地域。避難の重要性が身に付いている」と驚く。
稲むらの火の館の﨑山光一館長は「防災教育は命を守る教育。津波、災害はいつ来るか分からない。世界津波の日を機に忘れない気持ちを改めて持ちたい」と話す。
同館内には濱口梧陵記念館とともに津波防災教育センターがある。津波の恐ろしさを体感できる3D映像、津波防災の知恵をゲームや映像で学べる。昨年は全国から2万8000人、小中学生7~8000人が同館を訪れた。﨑山館長は「一年中災害が起こる時代。日頃の防災意識はどんなときにも応用できる」と力を込める。

津波の怖さを学ぶ子どもたち

 

 

各所で避難訓練

世界津波の日を伝え、津波防災の意識を高めて適切な避難行動の定着を図ろうと5日、県内全市町村で地震、避難訓練が実施される。
同町では津浪祭を行い、犠牲者の追悼と梧陵の偉業を語り継ぐ。海南市では安政の大地震の際に、大津波から逃げ場を失った人々の命を救ったとされる呼び上げ地蔵の伝承を活用した夜間避難訓練を実施する。

梧陵の偉業を紹介する稲むらの火の館